茨木 のり子

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 詩人。はたちで敗戦をむかえ、戯曲やラジオ童話を書く。二十三歳で結婚したのち 、詩を書きはじめる。二十七歳のとき、川崎洋とともに詩誌「櫂」を創刊。谷川俊太 郎、大岡信、岸田衿子、水尾比呂志、吉野弘らとともに、戦後詩のリーダーの一人と して活躍する。詩人の新川和江が言うところの「戦後現代詩の長女」である。

食あたりと玉音放送

 玉音放送のときは、動員先の寮におりました。世田谷区上馬にあった、海軍のため の薬品製造工場で、クラスで10人くらいもいましたかしら、敗戦の前の日ぐらいに ひどいもの食べさせられちゃって、おなかを全員こわしちゃったわけですよ(笑)。 それで苦しくてですね、寝込んでふらふらしてたんです。
 それでも玉音放送の、大事なのがあるからみんな出てこいってことで、無理して出 てってふらふらしながら聞いたんですけど、よく皆さんおっしゃるように、何を言っ てるのかわかんかったんですね。ただ前の方の人達がわあっと泣いたりしたから、あ あ、負けたんだ、とわかった。えーっと思っちゃったな。
 それですぐ、動員先から愛知県の郷里に帰ることになりました。切符も買えないよ うな、すごい混乱でしたから、友達と二人で無賃乗車しましてね。東海道線の蒲郡と いう駅で降りたんですけど、また田舎はものすごーくのんびりしてるわけですよ。東 京はものすごい混乱でしたけど、別世界のようでね。

民主主義者への許しがたい転換

 今から思いますとね、最初はそれこそ軍国主義的にマインドコントロールされてた んですよ。マインドコントロールなんか、ほんとに今のはやりですけれど、あれは昔 っからあったのでしてね。がんじがらめにさせられてたわけ。それが郷里に帰りまし て、一月とたたないうちに民主主義者になってたんですよ(笑)。
 それが今ふりかえると許せないって感じ。その程度のものだったのかなあという感 じですね。国のために死のうと思ってましたから。
 もうね、戦争に負けたら、とたんに新聞がばあっと民主主義になっちゃったわけで すよ。だから新聞読むと、そうか、間違ってたのかって具合に、また洗脳され始める わけですね。せめて一年ぐらいはね、自分でもう少し考えとけば良かったなって思う んですけどね。もう、情けないなって今になって思いますね。自分があんまり軽薄だ ったのが許せないって思います。

根府川の海

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たつぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまつさおな海がひろがつていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人こゝを通ったことがあつた

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケツトにゆられていつたこともある

燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かつたふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在つた

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
あゝそんなかゞやきに似た十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だつた歳月
うしなわれたたつた一つの海賊箱

ほつそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ツパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたゝび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこゝろを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら……

空襲と絶望と死〜薬学専門学校時代〜

 昭和十八年に、蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校の薬学部、今の東 邦大学の薬学部に入学しました。
 そのころは、本を読むのは好きでしたけれど、特別文学少女でもなくて、文学やり たいとか、そういうふうな思いもなかったのね。それで、父が、女は経済的にも自立 すべきだということを心中思っていて、そのことを私もよしとしてきたんです。
 ところが入ってみたら、私の頭は理数系のものをまったく受けつけなかったんです 。入学試験があれば、きっと落っこったんですけど、昔は女学校で成績が良ければ、 推薦入学で、少しだけ、薬学部に入れたんですね。そして、女学校の先生がとてもほ めて、とてもいい子で、成績もいいってなことをね(笑)、推薦文に書いちゃったも んですから、入っちゃったんですよ。
 入ったらばもう、ほんとに自分はだめなんだっていう気持ちがずうっと続きました 。ついていけないんです。教室でこうして座ってても、先生の講義がわかんないわけ です。そうすると、座ってても魂はぽおっと外へ行ってほかのこと考えてるみたいで ね。ほんとにつらい歳月でした。
 完全なおちこぼれね。やっぱりお友達と比べて自分はだめな人間じゃないかと。世 の中出てもやっていけないんじゃないかっていう思いがほんとに強かった。そしてま た、授業そのものももう、一年のときから空襲、空襲で、実験なんか一回か二回しか やってなかったんですよ。

 寮は四、五人でひと部屋でした。暖房もありませんしね、みんなドテラひっかぶっ て勉強してましたね。
 寝ていると、空襲警報ね、サイレンの音がバアッとして、退避、退避って言われる んです。そうすると寝ててもみんな起きて、また防空頭巾かぶって、防空壕に入らな くちゃならなかったのね。
 だけど、あれは十九歳ぐらいのときだったと思うんですけど、もう嫌んなっちゃっ て、いいや、ここで死んでもいいから、みんなと一緒になんか防空壕に入るまいと思 ってね、寝てたことあります(笑)。そうすると上級生が、みんな避難しましたかあ 、なんて部屋の戸開けて点検に来るんですけど、ずっと布団にもぐっていました。
 そのときつくづく思ったのは、ああ、これで爆弾が落ちてこっぱみじんに死んだと しても、これは自分の死ではないな、と。虫けらみたいなもんで、自分の死を死ぬっ てことじゃないなって思ったことおぼえてますね。
 そのころ、もう死は身近なものでした。でも死ぬのはこわいなとかいうのはあんま りないんですねえ。
 それと不思議なのは、戦争中って自殺ってほとんどなかったでしょ。どうしなくて も死んじゃうって思ったのかどうか。惨憺たる状況の時は、そこでなんとか生きのび ようっていう意欲が人間には起きるんですよね。で、今の方がずっと自殺は多いわけ 。これはなんだろうって思うのよね。
 ただ、当時私はときどき自殺を考えていました。化学ができないっていう自分自身 への絶望と、時代の暗さへの絶望。それから、自分で死ぬのだったら自分の死でしょ 。だけど爆撃でこっぱみじんっていうのは自分の死じゃないっていう感じなのね。
 結局、その布団にかくれていたときは、空襲が終わるまでそこにいて、みんなが戻 ってきてね、あらア、あんたいたの、なんて言われちゃって(笑)。
 そのとき、やっぱりいろんなこと考えますよね。でも、そりゃ思索なんて言えるも んじゃないですよ。ぼんやりと、いやだなあ、と思ってたわけ。

わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

自分の道を探す

 ほんとに学校では落ちこぼれでしたから、自分にもなにかほかに道はないかって、 ずいぶんさがしました。
 父にも言ったんですね。「自分には理系の頭もないし、この学校が合っていないみ たいだからやめたい」って。そしたら、「おまえもいったんは志を立ててこの学校に 入ったんだから、ここをやりとげなければ、これから何をやったって中途半端だぞ」 っておどかされました。それで、うん、そうか、やっぱり薬剤師の免状は取らなくち ゃいけないのかって、素直だったんですね、結局学校にもどったんです。
 でも、金子光晴さんなんか、早稲田、東京美校、慶応と、大学を三回も中退してる んですよ。あとになって、そのこと知ってたらさっさとやめてたのに、と思いました (笑)。

戯曲を書き始める

 敗戦のあと、昭和二十一年くらいだったかしら、帝劇にシェークスピアの「真夏の 夜の夢」を見に行ったんです。それがとってもよくって、こんな世界もあったのかっ て、当時私は新劇に熱中してしまったんです。
 その「真夏の夜の夢」のとき、読売新聞主催の戯曲募集っていう立て看板が出てい たんです。それで芝居のほうに行きたいと思って、書き始めたんですね。卒業間際で したが、郷里のほうの民話を主題にした戯曲を、もう必死で書いていました。卒業試 験はもう投げておりました。
 当時は卒業したら、つるんとところてん式に、そのまま薬剤師のお免状がもらえま したの。私はこりゃだめだと思っていましたが、卒業できちゃったんです。それでお 免状もいただいたんですね。でも父は、おまえみたいに薬学の知識がないものなんか 薬剤師として立っていけないから、もう一回最初っから勉強せいって言うんです。
 そしたら、応募した戯曲が佳作になったんですね。それがたいへん自分ではうれし くて。それで、こちらのほうに才能があるかもしれないから文学のほうに進みたい、 薬学は捨てると言いました。一種の実績ですね。何もなくて文学の道に入りたいと言 ったって、何言ってんだってなりますからね。なんだかだいぶ賞金もいただいたし( 笑)。父は、それに対して怒るということはありませんでした。やりたいだけやって みたらいいという具合で。でも、信用してなかったみたい(笑)。
 それからは申しわけなくて薬剤師の免状は一度たりとも使っていません。毒を盛り かねないから(笑)。

みいら取りがみいらに〜詩を書きはじめる〜

 それで、やっと自分の道を見つけたと思って戯曲を書くうちに、ずいぶん戯曲も読 みましたけど、日本の創作劇の場合は実に台詞がつまらなかったんですね。ことばと いうものを、もう少しこういうふうじゃなくしたいって思ったんです。そのためには 少し詩を勉強しようって思って詩を書きはじめたんですけど、戯曲のほうの志は得な いまま、みいら取りがみいらになって詩ばっかり書いているってことです(笑)。
 そのうち日本の演劇の状況っていうのも変わってきましたね。最近はほとんど見ま せん。なんか魅力がなくなっちゃって。

汲む
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

山本安英との出会い

 「Y・Yに」は女優の山本安英さんのことですが、山本安英さんと初めてお会いした のは、昭和二十二年なんです。
 土方与志さんっていう、今の方はわからないかもしれませんが、新劇運動の創始者 で、築地小劇場をつくった方が、佳作になった私の戯曲を読んで、女性で戯曲を書く のはめずらしいからあなた会ってごらんなさいって山本さんに勧められたらしいんで すね。それで向こうのほうから学生寮にお手紙下すって、私はそのときとってもうれ しかったんです。きれいな字でね。それから戦後ずっと山本さんとのおつきあいが始 まりました。
 そのころは、山本さんは結核がまだ治り切らなくて、寝たり起きたりしてらっしゃ いましたから、私は山本さんのお宅をおたずねしては、いろんなお話をうかがってた んです。私が山本さんから得たものはとても大きいんですね。そのころは四十くらい でいらしたけど、人間が生きていく基本みたいなもの、親やら先生からは得られない ような大事なものを、私は山本さんからたくさんいただいたと思ってるんです。
 生き方の根本みたいなものって、どう言うのが一番いいかなあ。あのね、私、山本 さんの色紙を一枚持っていたんです。生前、あまり色紙をお書きにならなくて、現在 、夕鶴記念館に寄贈したのですが、それは
「静かにいくものは
 すこやかに行く
 健やかにいくものは
 とおく行く」
っていうんです。
 女優さんなんか、派手で、一時期脚光を浴びて、それですぐだめになる人が多いで しょう。ところが山本さんは、この色紙のことばを一生かかって体現したのですね。  初舞台は大正十年ぐらいだったと思うんですけど、築地小劇場で女優さんとして始 めて、ほぼ七十年間、九十歳で亡くなられるまで、最後まで第一線だったんですよね 。あのみごとさっていうのはないと思うんです。けっしてきらびやかではないけれど も、ほんとに本質的な女優さんだったと思いますね。
 それともう一つは、芸術家っていうのは奔放無頼、何をしてもいいとみんな思って るけど、私はそうは思いませんっておっしゃるんですね。長い間いろんな人を見てき たけれど、一流の芸術家は社会人としても立派だって言うんです。当時私は、こんな 常識的な生きかたしてていい詩なんかできるはずないってどこかで思ってたんですが 、でもそうじゃないってこと。そういったことを、教えるっていうんじゃなしに、自 分の話として言って下さるんですね。そういうのが私にはびしびしききました。
 それから先年亡くなられるまで、ずっとおつきあいは続いていました。それはたっ たひとつ私の誇れることですね。
 当時、自分の身のまわりにいた女性達とはぜんぜん違ってた。第一ことばがよかっ た。っていうのは内容があるってことなんですけど。それから生き方の問題とか、い ろいろあるんですが、そういうことってすごく大事で、だからあなたもね、はたちな んだし、そういう人を見つけられるといいですね(笑)。

金子光晴との出会い

 戦後、新刊本なんか手に入りませんでしたから、古本屋に行っていろんな詩の本な んか手に入れてました。その頃一番共感したのは、やっぱり金子光晴さんなんです。 あの人の詩に出会わなかったら、どういう詩を書いて行くかってことも違ってきたよ うな気がしますね。
 ただ、私は金子さんのお弟子さんのつもりはないんです。対等につきあってきたつ もりでね。詩を書く人間に師も弟子もないと思ってますから。でも、みんなは私が金 子さんが好きっていうとお弟子さんみたいに思って、じゃあどうしてああいうふうに 奔放に生きないんだって言うんですね(笑)。ばか、って言いたいですね(笑)。盗 むのは根本的なところであって枝葉じゃないってね。
 直接金子さんにお会いしたのは、「現代詩」という雑誌の対談で、昭和三十五年く らいなんです。それまでは、別にお話をうかがいたいとかってこともなくて、ただ作 品の上で会っていればいいという気持ちだったんですけど。

「はっきりものが見える」ということ

 今の時点で振り返って思うことはね、戦争中にはっきりものの見えた人が、ほんの わずか、一握りでしたけど、いました。この戦争がおかしいっていうことが見えた人 。私の身近では、それが金子光晴さん。それから女優の山本安英さんですね。
 山本安英さんは女性なわけですよね。それでも、どうしてかはわからないけど、戦 争を非常に批判的にごらんになってた。そして、ご自分の体が結核で非常に弱かった ってことを口実に、いっさい戦争に協力しないできた人なんです。
 ほかの新劇人はくるっと愛国的な、戦意高揚的な演劇をやるようになっちゃった。 ところが、山本安英さんはずっと長野県に疎開して、そこで、自分を慕って集まって きた少しのお弟子さんと一緒に、演劇の練習してたんですねえ。来たるべき新しい時 代がきっと来るって思いがどっかにおありだったと思うんです。
 敗戦になったときに一般の人達は、軍部にだまされた、とか、そういう見方しかし ませんでしたね。ということは、戦後もやっぱりものが見えなかったということだと 思うんです。戦争中にものが見えなかった人は、戦後もやっぱりものが見えなかった。  山本さんなんかは、金子さんもそうですけれど、ぱあっと豹変した人間を実に苦々 しく見てた、と思うんです。詩人でも、三好達治なんか、あんな叙情的なきれいな詩 を書いてた人が、戦意高揚のほんとにひどい詩を書いてるんです。
 だから、私なんかも、戦後ものが見えなかったなあって感じはものすごく強いです ね。なんか、はっきりものが見えてなかった。今も見えてないかもしれないけど(笑) 。
 山本さんにしても金子さんにしても、戦後すぐ、まだみんなどうしていいかわから なかった時期に、非常にいい仕事してますよね。今にして思えば、二十一、二にして よく見破ったなっていう(笑)。

自分をつかむということ

 石垣りんさんともよく話すんですが、私達はただ、書きたくて、書くんだっていう ことをずっとやってきました。今の人は、書き始めから賞をねらったりするっていう のが多い。あれはちょっとちがうなっていうことです。ただ脚光を浴びたいっていう 、それで書いてちゃ駄目なんですよね。
 それから、人間だから、もちろん表現はしたいわけですが、それを男を通してする っていうことはしたくないなって思っていました。やれ出世せいだの給料足りないだ の、女の人って結婚すると、夫のお尻をひっぱたくリモコンみたいになるじゃありま せんか。ああいうのはいやだったんです。反面教師はいっぱいいましたからね。結婚 しても、自分は自分の世界を持って、それで調和していきたいなっていう気持ちがあ ったんですね。
 それをまた夫が理解してくれまして、嫌味をいったり抑圧したりするのではなく、 育てようとしてくれたんです。エドガー・スノーの「中国の赤い星」っていう本なん か読んだらいいって勧めてくれたりして。だから、結婚生活はうまくいきましたね。 上等の男性でした(笑)。
 結婚してから、二十代の後半に川崎洋さんと出会い、「櫂」を創刊したことも私に は大きかったのです。この同人たちがまたいい人ばかりで、それぞれにいい仕事を果 たしました。人を見る目はあるんですね、私(笑)。
 ごくごく初期的に自分をつかんだって思えたのは、やっぱり結婚してからですね、 二十五、六のときかな。
 さっきも言ったみたいに、すごい落ちこぼれでだめな人間だと思ってたわけ。だけ ど詩を書いたらわりといいと言ってくれる人が多かった(笑)。だから、ほかはばか でも一つだけ、一点いいところがあるのかなっていうのを自覚したわけですね。
 やっとつかんだものですから、詩を書くっていうことはそう簡単に手放せないって いう感じ。これがなかったら、あほみたいなもんだと思いますし。
 それから、まあ、結婚しましたら、お料理なんかも、別に習ったことないんですけ ど、おいしいおいしいと夫が言いますし、お客様も言いますしね。おかみさん業はで きるかなっていう(笑)。おかみさん業だってできない人いるんだからとか思ったり して。
 やっぱり自分をつかむというのはむつかしい、と思います。まだつかんでないかも しれないわね。だから死ぬまで続くんじゃないでしょうか。これが自分だと思ったの が、そうじゃなかったりもするわけですから。
 私は夫をなくして、もう二十年たちまして、今はひとりぐらしなんですね。だから もうどうでもいいやっていうところがだいぶあって、いつでも時期が来たら死にます よっていうか、死を受け入れたい気持ちなんです。でも、いざとなったらどうなるか っていうことはわかんないわけですよ。変にじたばたして、あれ、これが自分かって いうことになるかもしれないでしょう? 
 自分に出会うっていうことは、ほんとにむつかしいことですね。一番むつかしいこ とかもしれない。そしてはたちなんてのは、そのもっともトバ口なんだと思いますね 。一番もやもやして不透明で、一番苦しい時期だと思います。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

自分の感受性くらい

 実は、この詩の種子は戦争中にまでさかのぼるんです。
 美しいものを楽しむってことが禁じられていた時代でしたね。でも、その頃はちょ うど美しいものを欲する年ごろじゃありませんか。音楽も敵国のものはみんなだめだ から、ジャズなんかをふとんかぶって蓄音機で聞いたりしてたんです。隣近所をはば かって。これはおかしいな、と。
 それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしい んじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじ ゃないかという疑問は子供心にあったんです。
 ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって 。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかった わけなんです。
 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうし たときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがったって言えるけれども、 人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをする っていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」 なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。
 国立博物館は戦争中も開いてたんです。だから、戦争中も、美しいものが見たくな ると行って、一日館内まわってました。あすこ行くのが好きでしたね。そうねえ、二 月に一回は行ってました。
 戦後もそうでした。すぐには復興しなかったですから。特に学校のあった蒲田は、 工業地域だからみんなやられちゃって、防空壕に人が住んでたんです。防空壕から煙 突が出てて、そっから煙が出ててね、そこに出入りしてるの見ると、アリみたいでし たね。銀座なんかも、あー、貧相だなあって感じで(笑)、悲しいなあと思って見て ました。ですから、居場所っていうと、国立博物館が一番やすらぎましたね。

戦争の意味

 はたちの誕生日は、戦争中で動員先の寮にいましたし、ああ今日がそうか、ってぐ らいでしたね。今の人たちじゃ想像もつかないくらい、もう話にもなにもならない状 況でした。食べ物はひどいし。専門学校に入った頃なんて、あそこの食堂が開いてる ってわかると、それって具合にみんなで行って、蒲田の、京浜工業地帯の工員さんた ちに混じってがつがつ食べてたんですね。
 だけど、みんなこういう話ばっかりし過ぎて、子供たちは聞くのいやだっていうで しょ。それで、あの戦争はなんだったかってことを次の世代にちゃんと伝えられなか ったって気がしてしょうがないのね。それぞれが戦争を自分の意識のなかで組み立て てないというか。
 私のなかではわりとはっきりしています。東洋に対しては、あれははっきりと侵略 でした。ひどいことしましたよね。それじゃ、アメリカとの戦争は、あれはなんだっ たのかってずっと思っていたんですけど、ベトナム戦争のときに、ああ、これと同じ ようなものだったんだなって思ったんですね。要するに、アメリカの日本に対する侵 略ですね。ベトナムの場合は最後まで戦ったわけでしょう。アメリカが敗退したわけ ですよね。でも、日本は一億玉砕とか言っていて、私も死ぬつもりだったんですが、 それなのに沖縄だけを犠牲にして、「負けました、はあい」って言ったのは、ベトナ ムに劣ると思ったんです。
 負けっぷりのまずさを今も引きずっていますね。

一番きれいだったとき

 今、お友達とも良く話すんですけど、若い頃ってかろやかな楽しみが多かったです ね。ええ、かろやかな。年を取るとおもったるくなっちゃうの、すべてがね。
 今はものがあふれてるから、そんなことはあまりお感じにならないかも知れないけ ど、私達はもう、靴一足買ってもうれしかったわけよ。それからレインコート買って も嬉しかったしね。そういうささやかな楽しみっていうのはありました。でも、おし ゃれをしたいとか、そういうことはできなかったのね。
 ただ、ああ、今はたちなんだって思ったときがありました。鏡見たら、目が真っ黒 くろに光っててねえ。うーん、そうか、今はたちなんだ、今が一番きれいなときかも しれないっていうふうに思ったのね。残念なのは、自分の若さが誰からもかえりみら れないということ、特に男性達から。かえりみられるっていうとおかしいんだけどなあ。
 それで、私がラブレターをもらったことがないって書いたら、みんなにびっくりさ れるんですけどね。ひとっつもないの(笑)。だからやっぱり時代的なものもあるし 、それからやっぱり魅力がなかったのかな? 男達はみんな戦争に負けたってことで 、みんな自信を失ってたと思うのね。だから、そういうさびしさっていうのもあった んだろうなっていうのも、今になって思うんですけどね。
 「わたしが一番きれいだったとき」は、はじめはいい気な詩を書いたってみんなに いわれたんですよ。いちばんきれいだなんて自分のこと言ってるってね。ところが、 ほんとに自分でも無意識だったんですが、私と同世代の人達は、自分たちを代弁して 、自分達の世代をうたってくれたっていうふうに読んでくれる人が多くなって。
 それから、アメリカのフォークソングの草分けで、ピート・シガーって人がいるん ですが、その人が作曲してくれたんですね。そのときはちょうどベトナム戦争の時だ ったんです。それで私ははっきり言葉で聞いたわけではないんですが、ピート・シガ ーって人は、あれをもっと越えたものとしてとらえてくれたなってうれしさがありま した。つまり、ベトナムにはベトナムの、一番美しい時を持った少女たちがいたわけ ですからね。そういう子達の思いっていうのもふくめてくれたなって。だから、そう いい気な詩ではなかったなって今になって思うんです。
 一番美しいときは、やっぱり最高に輝いてほしいわけ、どこの国の少女たちにもね 。戦争なんかで惨憺たる思いさせたくないじゃないですか。そういう願いの詩ととっ てもらえればね。
 あれを書いたのは30過ぎなんですけど、それまでにもずっとそういう思いってい うのがあったわけではなくて、なんとなく、書きはじめたら最初から最後までつーっ といっちゃって、ほとんど推敲しないでできちゃったのね。ちょっと珍しいんです、 私にとっては。いつでも途中まで書いて、後で読むといやだなあって思ったりするん ですけど。言葉がどんどん並んできたから、やっぱりあれはできるべくしてできた詩 かなあ、と。誰かに書かされたかなあって感じもします。

学校 あの不思議な場所


午後の教室に夕日さし
ドイツ語の教科書に夕日さし
頁がやわらかな薔薇いろに染った
若い教師は厳しくて
笑顔をひとつもみせなかった
彼はいつ戦場に向うかもしれず
私たちに古いドイツの民謡を教えていた
時間はゆったり流れていた
青春というときに
ゆくりなく思い出されるのは 午後の教室
やわらかな薔薇いろに染った教科書の頁
なにが書かれていたのかは
今はすっかり忘れてしまった
“ぼくたちよりずっと若いひと達が
 なにに妨げられることもなく
 好きな勉強をできるのはいいなァ
 ほんとにいいなァ”
満点の星を眺めながら
脈絡もなくおない年の友人がふっと呟く

学校 あの不思議な場所
校門をくぐりながら蛇蝎のごとく嫌ったところ
飛びたつと
森のようになつかしいところ
今日もあまたの小さな森で
水仙のような友情が生まれ匂ったりしているだろう
新しい葡萄酒のように
なにかがごちゃまぜに醗酵したりしているだろう
飛びたつ者たち
自由の小鳥になれ
自由の猛禽になれ

はたちをもう一度過ごすとしたら

 日本でいいから、もっと平和な時代、今だったら楽しいだろうなと思います。だか ら、それをうまく上手に享受していない人見ると、もったいないなと思っちゃうわね 。勉強のことでも。
 戦争中っていうのは自分一人一人の目的を持つのはむつかしかった。今は、勉強し たい人っていうのは心ゆくまで勉強できる環境でしょ。それも男にも女にも開かれて るわけでしょ。そんな時代って今までなかったわけですから。今、渋谷なんかで若い 女の子がむちゃくちゃやってるでしょう。ああいうの見てるともったいないなあって いうふうに思うのね。それに、十代で、偏差値みたいのがあって、だいたい先が見え るんじゃないですか?  あれがかわいそうでねえ。でも白けるのじゃなく、十代で 自分の人生決まってたまるかよ、という気概をもってほしいんです。
 今の若者は詩が書きにくいだろうな、とは思います。昔はね、何か一つ、たとえば 、人間らしく生きたいよ、というようなテーマで書けば、中でこう、ぼぼぼーんと共 鳴する、共通の社会的基盤ががあったわけでしょう。でも、今はそれがないでしょう?  ただ、もう一回はたちに戻ってやりなおしたいなって気持ちがあるということは、 私はかなり順調だったってことでしょうね。戦後で、ほんとに苦しい青春時代を送っ た人なんか、もう一度若い頃をやりなおす?とんでもない、ごめんだ!って言います もんね。
 もう一度はたちに戻ったら、やっぱり語学をしっかり勉強したいですね。英語は私 、まったくだめなんです。敵性語だったからぜんぜんやらなかったのでね。専門学校 に入ったらドイツ語だったんです。それで私とっても喜んで、これだったら最初から できると思って、それこそヘルマン・ヘッセを原書で読みたいなんてだいそれた考え をおこしましてね、ものすごくいっしょけんめい勉強したんです。でも、これも一年 ぐらいで授業なくなっちゃったの。先生が召集されたんですね。とってもすてきな先 生だったんですけど。それに動員なんてのもあって、海軍とかなんとかに連れてかれ て働かされたりしたもんですから、結局ドイツ語もポシャったわけです。
 夫が亡くなってから、そこから立ち直るには、過去ばっかり見てるとだめだと思っ たんです。生きていく以上、前に進まなければ、と思い、それには語学をやるのが一 番いいと自分で思ったんです。それで、ドイツ語にしようか、韓国語にしようか迷っ たんですけど、ドイツ語はうまい人いっぱいいますからね、韓国語はいまだに本気で やろうとする人がいないから、よし、韓国語にしよう、と。そしてカルチャーセンタ ーに通いだしたんですね。それで何とか悲しみを乗り越えられたものだから、ことば に対する恩返しのつもりで韓国の詩を訳したんです。
 続けたいんですけど、今ちょっと視力がへんなものですからできなくって。やっぱ りやりどきってあって、あのとき訳しておいてよかったなって思っています。

 系統だって何も勉強してないんですね、私は。日本の古典なんかにしても、実に気 ままな自分流の読み方で。でも、かえって国文科なんかに行かなくて良かったと思っ てるんです。型にはまって教え込まれると自由でなくなりますからね。
 万葉集が好きで、はたちのころもずっと読んでました。山上憶良なんかが好きでし たね。あの人は渡来人で、やっぱり当時の人のなかでもちょっと変わってて、現在に 通ずるものがあるんです。そうね、貧窮問答歌なんか印象に残っています。それと、 読み人知らずの東歌にも好きなものが多かった。
 あの頃は、読むものすらなかったわけなの。でも万葉集はあったのね。ただ、討ち てしやまんとかね、醜の御盾と出でたつ我はとか、そういうのばっかりクローズアッ プされてました。恋歌なんかにいいのがいっぱいあるのに。

今のはたちの人に

 今のはたちの人に? そうね、特に女の人なんかそうだと思うんですけど、愛され ることばかり考えてて、だからとっても甘ったれですよね。親に対しても、友人に対 しても、恋人に対しても。
 愛するというのはどういうことか、少しめざめてほしいのです。相手の欠点も、だ め部分も含めて能動的に愛するってことは大変ですけれどねえ、自分も傷つくし。
 あんまりいい答えになってないなあ(笑)、はたちのひと達にいうことばとしては。

小さな娘が思ったこと

小さな娘が思ったこと
ひとの奥さんの肩はなぜあんなに匂うのだろう
木犀みたいに
くちなしみたいに
ひとの奥さんの肩にかかる
あの淡い靄のようなものは
なんだろう?
小さな娘は自分もそれを欲しいと思った
どんなきれいな娘にもない
とても素敵な或るなにか……

小さな娘がおとなになって
妻になって母になって
ある日不意に気づいてしまう
ひとの奥さんの肩にふりつもる
あのやさしいものは
日々
ひとを愛していくための
  ただの疲労であったと


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